とかげはワニにならなくていい
縁起「とかげ文庫」 とかげ文庫主人 後小路雅弘
2020年3月、新型コロナ・ウィルスが猖獗を極め、不吉な不安が覆いつつあった。わたしはといえば、勤務先の九州大学を定年退職する日が迫りつつあった。ここ数年、退職後の生活について考えてこなかったわけではなかったが、なんとなくそのうちどこからか再就職のオファーがあるだろうと楽観的に構えていた。だがその予測は外れ、3月になってもなんのオファーもなかった。その厳しい現実に向き合わざるを得なくなったときには、すでにXデーが目前に迫っていた。再就職先がないのであれば、少なくとも、大学の個人研究室に置いてある膨大な蔵書を置く場所を、早急に決める必要があった。3月末までに研究室を明け渡さなければならないのだ。1年半前、箱崎キャンパスから新しい伊都キャンパスへと引越した際には、450箱を超えるダンボール箱が必要だった。そこで、蔵書を減らすべく泣く泣く西洋美術関係の本は、古巣の福岡市美術館などに寄贈し、残りの人生であまり使いそうもない本は古本屋さんに売って、残った蔵書は結果的に250箱ほどになったが、それでもかなりの量だった。
数年前に、職場の退職予定者向けのセミナーに参加したことがあった。そのとき講師の先生から「退職後には、若いころの夢をかなえましょう」と言われたことが印象に残っていた。若いころから、いつか宮仕えを辞めて個人で事務所を構えて仕事をすることをずっと夢みてきた。だが、身過ぎ世過ぎで40年以上、公立美術館と国立大学で働く「宮仕え」を辞めることができなかった。こんなわたしにも養うべき家族があったのである。どこからも再就職のオファーがないというピンチは、むしろ神様が与えてくれた夢をかなえるチャンスなのではないか、と思い直すと胸が高鳴った。
指導する大学院生を、定年退職までになんとかフルタイムの学芸員の職に就かせるべく尽力してきたが、まだ数名の教え子が大学に残り、あるいは非常勤の職にあった。そうした教え子が、わたしの蔵書を使って研究したり、研究会を行ったりできる場が必要という事情もあった。また、教え子に限らず、アジア美術研究を志す若い人たちに、わたしの蔵書や資料を使って研究に役立ててほしいという思いもあった。そのためにはある程度の広さも必要だし、それなりに足の便が良いところを確保したかった。
以前、紺屋2023プロジェクト内にある紺屋ギャラリーで展覧会の企画を担当したことがあった。その際、なにげなく紺屋2023に入居することが可能かどうか聞いてみたことがあった。可能であるとの返事をもらっていたが、必ずしも現実的な話として考えていたわけではなかった。退職を前に切羽詰まったときにそのやりとりが脳裏によみがえった。
妻に相談したら必ず反対されると思い込んでいたわたしは、なかなか言い出せなかった。家賃に加え、部屋の内装などかなりの出費が予想された。年金生活者には重すぎる負担となることは目に見えていた。やっとの思いで話を切り出すと意外にも賛成してくれた。自宅にあの本の山を持ち帰られたらかなわないと思ったのだろう。
妻のお許しを貰い、わたしは喜び勇んで紺屋2023への入居の話を、大至急進めようとした。だが、ことはそう単純ではなかった。入居までには、いろいろと踏むべき手順があり、面倒な手続きもあったり、わたしにはよくわからない諸般の事情もあったようで、実際に契約を結ぶまでには時間が必要だった。引っ越し先が決まらなければ、引っ越し業者の手配はできない。さらにコロナ禍の緊急事態ですべてが滞った。九州大学総合研究博物館の歴史的什器再生プロジェクトの一環として本棚を借りる話をしていたのだが、その話もストップしてしまった。本棚を先に入れなければ本は搬入できない。退職の日は刻々と迫る。すでにわたしの研究室に次に入る先生は決まっていたのだが、なんとか研究室を明け渡す日を5月初旬まで延ばしてもらった。なかなか引っ越しができず、焦りで胃が痛い日が続いた。ストレスからか、あるいは花粉症なのか、喉の不調が続きコロナに感染したのではないかと怯える日々だった。
本棚借用の話はあいかわらずストップしたままで、それを待つことはできなくなった。蔵書を本棚より先に運び込むしかなかった。運び込まれた段ボール箱を見て、いったいここに予定通りの本棚が入るのか不安が募った。床が抜けるのではないかという不安から、段ボール箱を天井まで積み上げることはしなかったので、部屋中をダンボールが占拠することになった。[図1]
それでもなんとか本棚が入ると、今度は毎日、わたしは本を棚に並べる作業に熱中した。気が付くと夏が来ようとしていた。キリがないので6月末にはオープンすることにした。オープン記念として、手持ちのナウィン・ラワンチャイクンの作品と資料を並べた。また「とかげ文庫」という名前にちなんで、これまで蒐集してきたアジアを中心にしたとかげの置物やアクセサリー、挿絵などを並べたコーナーを作った。[図2]
当然ではあるのだが、なぜ「とかげ」なのかとしばしば尋ねられる。質問者も耐えられないほど長い話になってしまうのを恐れて適当に答えることも多い。せっかくだからここに書き留めておこう。
わたしは1988年の初めにフィリピンのまだ若い、無名の、そしてわたしと同い年のアーティスト、ロベルト・フェレオの個展を、福岡市美術館の「アジア現代作家シリーズ」の第1回展として企画開催した。学芸員になって10年が過ぎようとしていた。それまでのわたしは、実力もなく、自信もなく、なにをやればよいのかよくわからないまま働いていた。深い霧の大海を、羅針盤もなく、目的地さえわからず、漂流しているかのような苦しさがあった。この展覧会はささやかではあったがそれなりに評価され、自分でも手ごたえを感じた展覧会であった。なにより展覧会の準備が楽しかったし、完成した展覧会も満足できるものだった。思いを込めた図録作りの作業はとりわけ楽しいものだった。この展覧会は、その後のわたしが学芸員として歩む道を決めるものになった。ようやく少しだけ自信もでき、進むべき方向も定まった。他のひとたちに比べればずいぶん時間がかかったけれど、10年の丁稚奉公を経験して、ようやく学芸員として独り立ちした気がした。
為政者に押し付けられた歴史を、フィリピン民衆の視点から語りなおそうとするフェレオの作品は、物語に満ちている。そこにはさまざまなキャラクターが登場するのだが、なかでもとかげが愛らしかった。とかげはフェレオによって神の言葉を人間に伝える存在とされていた。図録のデザイナーである大宝拓雄さんが、そのとかげを含むキャラクターをアレンジして、図録のノンブルのアクセントに使った。わたしは、そのとかげのデザインが気に入ったので、それをスタンプに作り、自分のロゴマークのように勝手に使っていた。そのうちとかげを自分の分身のように感じるようになっていた。仕事で苦しい時やまわりの人がみな自分より優秀に見えて妬ましく惨めな気持ちになった時には「とかげはワニにならなくていいんだ。」「とかげにはとかげの人生があるんだ。」と自身に言い聞かせて生きてきた。[図3] [図4]
そこで今回、わたしの新たな拠点に、初心に帰る意味でも「とかげ」という名を冠したかった。そこで改めてロベルト・フェレオの許可をもらい、デザイナーである大宝拓雄さんの許可を得て、あらたにマツダヒロチカさんにロゴマークを作成してもらった。[図5]フェレオからは、とかげはフィリピンの神話で、天と地を分かつものであり、双頭のとかげは生と死を司ると教えてもらった。ほんとは美術史探偵を自称して事務所を「とかげ探偵社」と名付けたかったのだが、そんな看板を掲げると現実のやっかいなもめごとに巻き込まれるに違いないから、無難なところで「とかげ文庫」という名前に落ち着いた。挨拶状を送った中国哲学の柴田篤九大名誉教授から、中国の古典である四書五経のひとつ『易経』の「易」はとかげのことだとご教示いただいた。とかげは未来を占うのである。
「とかげ文庫」とはなにか、という質問には、「アジア美術研究のためのリサーチ・ライブラリー(あるいはアーカイヴ)」と答えるのが適切なように思われる。それは、わたし個人のアジア美術研究のための活動の拠点であり、同時にアジアの美術に関心を持つひとや、後進の研究者にも開かれた場として機能できればと思っている。実態からいえば「後小路アジア美術研究所」というような名称にすべきかと考えないではなかったが、もともと「大上段に構える」のが性に合わないのでそのような名称にはしなかった。
昨年9月の末には、沖縄県立芸大の集中講義をとかげ文庫からリモートで行った。そこからインドネシアのバンドン工科大学創立100周年の記念講演、韓国の東亜大学での特別講義、ナショナル・ギャラリー・シンガポールでの講演と、とかげ文庫からオンラインでアジアの各地と結び、アジアに留まらない聴衆を得ることになった。どこにも行けないのはさみしいが、コロナのおかげで発信拠点としてのとかげ文庫の役割は高まったともいえる。
とかげ文庫の1年があわただしく過ぎようとしている。コロナ禍の終息はまだ見通せない。それでも希望をもって新たなことがらにチャレンジしていこうと思う。(2021年3月)